鷗友学園の歩み・設立History

女子高等教育のための学園として1935年に創設

鷗友学園が創設されたのは1935年。東京府立第一高等女学校(現:東京都立白鷗高等学校)の同窓会・鷗友会によって、母校創立50周年記念事業の一環として鷗友学園高等女学校の名で設立されました。
今日の鷗友学園の基礎を築いたのはふたりの教育者でした。ひとりは東京府立第一高等女学校の校長を長くつとめ、女子教育の先覚者と仰がれた市川源三。もうひとりは、キリスト教思想家・内村鑑三と日本の女子教育の先駆者と言われる津田梅子の薫陶を受けた石川志づです。

市川源三は、今から70年以上前、まだ良妻賢母教育が当たり前の時代に、「女性である前にまず一人の人間であれ」「社会の中で自分の能力を最大限発揮して活躍する女性になれ」と教えていました。本校設立以来、その教えを教育の根本にして、一人ひとりのいろいろな可能性を引き出し、能力を発揮できるようにすることを考えた女性教育に取り組んでいます。

第一高女の名校長として知られ、鷗友学園創立の際に請われて校長となった市川源三
第一高女の名校長として知られ、鷗友学園創立の際に請われて校長となった市川源三

石川志づは第二次世界大戦中も英語教育を続けるなど、国際社会で活躍する女性の育成を目指していました。また、キリスト 教精神による全人教育を心の教育の基盤としたのも石川志づです。本校はミッションスクールではありませんが、中学で週1時間の聖書の授業を設け、一人ひとりが自己と向き合う時間を持ちながら、いかに生きるかを考えます。

鷗友学園では今もなお、これからの時代に向けて生徒たちが広い視野を持ち、理解力と判断力を身につけた知性豊かなひとに、そして、思いやりをもって多くの人々と協力し共に生きる心豊かなひとに育ってほしいと願い続けています。

三十数年にわたり、理事長・校長として鷗友学園の経営・教育に力を尽くした石川志づ
三十数年にわたり、理事長・校長として鷗友学園の経営・教育に力を尽くした石川志づ

校章

校章は「雪輪に松」。「厳しい環境でも青々とした松のように力強く、太陽のように明るく生きよ」というメッセージが込められています。府立第一高等女学校の校章中央の「一高女」の文字を「鷗友」に替えたものです。

沿革

1935年2月23日財団法人鷗友学園(東京府立第一高等女学校同窓会(鷗友会)により設立)
1935年2月23日財団法人世田谷高等女学校及び技芸女学校を引き継ぐ
1935年5月27日「世田谷高等女学校」から「鷗友学園高等女学校」へ校名変更認可
この日を創立記念日とする
1938年2月16日「世田谷技芸女学校」から「鷗友学園技芸女学校」へ校名変更
1939年2月28日「鷗友学園技芸女学校」を廃校
1947年4月1日学制改革により「鷗友学園女子中学校」を開設(設置認可1947年3月31日)
1948年4月1日学制改革により「鷗友学園女子高等学校」を開設(設置認可1948年3月10日)
1951年3月15日私立学校法施行により、学校法人鷗友学園となる
1955年4月5日専攻科設置
1963年6月5日軽井沢に「追分山荘」開設
1981年4月5日校舎建設総合計画決定
1983年3月5日石川記念館完成
1984年10月3日2号館完成
1985年7月22日3号館完成
1986年5月16日図書館棟完成
1988年4月7日4号館完成
1991年3月体育館完成
1996年9月本館完成
2005年7月21日専攻科廃止

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