2019.01.31
正門から校舎の中に入る。左手に事務室のある吹き抜けの空間には、天井からモビールが下がっている。銀・青・グレーの無数のきらめきが水の波紋を表している。その空間の南のガラスからは校庭が見える。事務室の脇の可動式掲示板の前には、人だかりができていた。クラス分けの発表だ。急に胸がきゅっとして、苦しくなる。担任の先生はどんな人だろう。友達はできるだろうか。同じ小学校からは、誰もこの学校に進学していないので、私には知り合いがいない。自分の性格は明るい方だとは思うけれど、友達をどんどん作れるようなタイプでもない。
「1年4組1番 相沢 佳連 あいざわ かれん」
私の名前はすぐに見つかった。予想通り名簿の一番上にあったからだ。「あいざわ」よりも五十音順で先に来る苗字などあるのだろうか。小学校でも音楽のテストで一番最初に歌わないといけなかったり、掃除当番はみんなより多く回ってきたり。できれば目立ちたくないのに、それもかなわない。将来は「渡辺さん」か「山田さん」と結婚しよう。
掲示板の脇には白くて細長いテーブルが四台置いてある。その上にアクリル製の名札が並んでいた。左から1組、2組と二クラスずつ。私は4組という表示のところへおそるおそる進んでいく。ベージュのスーツを着た髪の長い女の先生が声をかけてくれた。
「ご入学おめでとうございます。お名前をお願いします。」
「……相沢です」
「相沢さんですね。こちらの名札をつけてください。」
「はい」
私は小さな震える声で答えた。その女の先生は優しい笑顔ではきはきとした口調だった。あの先生が担任の先生なのだろうか。だったら私ももっと笑顔で大きな声で挨拶すればよかった。でも私の手と足はすでに感覚がない。ふわふわと浮かんでいるような気分だ。ついさきほど電車を降りたときには、あんなに喜びに満たされていたのに。これが「緊張」というものなのだろうか。
入学式の会場は体育館だ。鷗友学園では「アリーナ」という。 モビールの空間から、細長い廊下を通って行く。廊下の左手には、クラブ活動の連絡用掲示板がある。新入生を歓迎する各クラブのメッセージにあふれていた。お母さんが掲示板に夢中になって喜んでいたけれど、今の私にはそれをじっくり見る余裕さえなかった。
アリーナの扉は開いていて、そこにもまた大勢の先生方が立っていた。先生ってこんなにたくさんいるんだな、小学校とは全然ちがう。
「おめでとうございます。」
「保護者の方はこちらへどうぞ。お嬢様は、手前の扉から入ってください。入り口側が1組、奥が8組です。」
お父さんやお母さんとは別の席だ。ちょっとひるんでから、私は舞台の近くの生徒席へ進んだ。4組の座席の前には、プラカードを持った上級生が立っている。何年生かはわからないけれど、紺のリボンをしているから高校生だと思う。背が高くて背筋がぴんとしていてかっこいい。私はその上級生に見とれながら、自分の席に座った。少し早く着きすぎてしまったのか、なんと一番乗りだ。3組や5組には何人かの新入生が座っているが、4組の席にはまだ誰もいなかった。
「ふう…」
一息ついて鞄を椅子の下に置く。やっぱり自分は緊張していることに気づいた。肩や首が自分のものではないかのようだ。開式は九時三十分だから、まだあと三十分もある。だまって座っていると、ますます緊張が募りそうだ。
「おはよう!ねえ、あなた4組1番の人?」
突然、肩をポンポンとたたかれた。恐る恐る顔を上げると、まぶしいくらいの笑顔がそこにあった。すらりと伸びた背に肩までのサラサラの髪。制服が似合ってる。鞄には猫のマスコットをつけている。上級生かな?赤リボンだから中学二年生なのかな、と思った。
「あ、はい。そうです。おはようございます。」
「よかったー、私2番なの。隣の席だね。よろしく。」
どうやら彼女も新入生だったようだ。私は驚いた。大人っぽいし、コミュニケーション能力も高いし、おしゃれな子だ。こんな素敵なクラスメイトがいるなんて、ますます緊張する。でもなんだか少しうれしいような気もする。
「私の名前は、石田真琴。マコって呼んでね!」
そういって真琴はまた私の肩をポンとたたく。そして鞄をドンっと床に置いて私の隣の席に座った。
「名前、なんて言うの?」
「あ、相沢……佳連です。」
「カレン?えー、外国の人みたいな名前だね。カタカナなの?どういう意味なの?」
「ううん、漢字だよ。えっとね…」
私は自分の名前の漢字と、由来をがんばって説明した。「佳」はしあわせで、「連」は連なる。幸せが続くようにと、お父さんが一生懸命考えてくれた、大好きな名前。
「超かわいい名前ー。おしゃれだよね。いいなあ。私なんて普通の名前だよね、お姉ちゃんが美琴で私が真琴。あ、お姉ちゃんが中三にいるんだー。」
真琴はどんどん話してくれた。とまらない。姉に誘われて、学園祭やオープンキャンパスなどで何度も鷗友に来ていたらしい。新入生なのに、ずいぶん前から学校に通っているみたいだった。話題の途切れない、頭の回転の早い子だ。私は話を聞く方が好きだから、真琴との会話が心地よかった。でも私もできるだけがんばって、たくさん話した。そしていつしか私の緊張はほぐれ、開式までの三十分があっという間に感じられた。
入学式は校長先生や生徒会長の話があって一時間ほどで終わった。その後は教室でこれからの学園生活の説明を受け、記念写真を撮り、長い長い鷗友学園での第一日が終わった。今日は本当にたくさんの人やたくさんの物と出会った。頭がパンクしそうだし、全く気持ちが整理できない。そんな中、真琴との出会いは、私の心の一番目立つところに存在している。実は一番不安に思っていた、友達ができるかという問題。真琴の登場で全てが希望に変わるような気がした。私はこの場所できっと、輝くことができる。私はゆっくりと、そして順調に最初の一歩を踏み出したのだ。
2018.04.01
柔らかな春の陽射しが背中を押す。二両編成の小さな電車を降りると、目の前には住宅街が広がっていた。右手には古い神社がある。朝八時を回ったばかりなのに、お参りしている人が三人ほどいる。お参りを毎朝の習慣にしているのだろうか。
「毎朝」という言葉が頭に浮かんで、ふっと笑みが漏れた。今、目の前にあるこの光景がこれから六年間、私の日常になるのだ。新しい革靴に少し違和感を覚えながらも、私の心は温かく、満ちている。右肩には新しい鞄。グレーのブレザーの袖は少し長い。小学校では毎日ジーンズだったから、プリーツスカートなど何年ぶりにはいたのだろう。少し足が肌寒いような気がして不安になる。
「あ、ほんとに入学式って書いてある!ほんとに夢じゃなかったんだ!」突然、隣でお母さんが歓喜の声を上げた。住宅街を五分ほど進み、十字路を左折すると学校の正門の前に、白い立て看板が見える。
「鷗友学園入学式」
本当にそう書いてある。たぶん書道の先生が書いたであろう、美しくも力強い文字で。打ちっ放しのコンクリートの校舎を背景にその看板はあった。すでに新入生と思われる親子が何組も記念写真を撮っている。霞がかかった春の空、グレーの制服と満開の桜のコントラスト。美しい写真がとれそうだ。
塾の先生の勧めで、一昨年の学園祭に来たとき以来、私の憧れの場所。あのとき、地下の体育館で一生懸命に学校の紹介をしてくれたお姉さんたちは、今はもう中学三年生になっているはずだ。きらきらしてまぶしくて、かっこよかった。憧れた。でも、「この学校を目指したい」と私が言う前に、先にお母さんが「自分が入学したい!」って言ったからちょっと引いたのもよく覚えている。そんな憧れの場所が、今日から私の学校になる。
「写真撮るから、早くお母さんと並びなさい。並んでる人たち、いっぱいいるから。」
お父さんは、今日のためにミラーレス一眼とかいう立派なカメラを買った。しかも今日は平日なのに、仕事をわざわざ休んでくれた。そこまでしなくてもいいのに、と正直あきれるけどそれは言わないでおこう。お父さんの部屋には、たくさん本がある。特に歴史小説が多いと思う。休みの日はリビングで本を読んでいることが多い。お母さんと比べると口数も多くないし、いつも仕事で帰りが遅いから、最近あまり話していない。でも、合格した日、お父さんが泣いていたのを私は知っている。そして昨日も何にも言っていなかったのに、今日の入学式に来てにこにこしながら、写真を撮っている。
お母さんは女子校出身だから、すぐにこの学校を第一志望にしようと言っていた。今でも同級生とよく女子会をしている。中学高校の部活動で得た友達は一生ものなのだそうだ。だから私にも運動部に入って青春を謳歌してほしいらしい。昨日も部活動の一覧表を見て、「何に入ろうかなあ、バスケかバレーじゃない? えっ?新体操とかバトントワリングもあるの?すごいね。」なんて、自分が入部しそうだった。
私は、こんな両親と三人で多摩地区の緑の多い街に住んでいる。小学校には仲の良い友達も好きな男子もいたけれど、その街の中学校よりこの学校を選んだ。電車を乗り換えて一時間かかる。今日は三人で登校したけれど、明日からは一人で通う。正直不安だ。それでも、私はこの学校にどうしても通いたかった。理由はうまく説明できないけれど、この学校に入るためならと、苦手な算数もがんばることができたのだ。
「お父さんも、一緒に写真に入ろうよ。誰かに撮ってもらおうよ。」
私は言った。「鷗友学園入学式」、そう書かれた看板の前に三人並ぶ。今日は私たち家族の記念日だ。そして、鷗友学園での私のストーリーがはじまる。